島原とは京都にあった花街。
京都の花街といえば祇園が真っ先に思い浮かぶのですが、かつては東の吉原、西の島原と呼ばれたくらい規模も大きく格式の高い花街だったのです。
今では信じられませんが、江戸時代は島原が幕府が許可した公認の花街、祇園が非公認の花街だったんですね。
その歴史は古く、室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条周辺に許可した許可した日本初の公娼地がその始まりだそうです。
その後桃山時代には二条万里小路に、そして江戸時代に入ると六条三筋町に移転。
さらに1641年には朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後『島原(嶋原)』と呼ばれるようになったといいます。
島原には「西新屋敷」という正式名称があるんですが、その移転時の騒動が島原の乱のようだと例えられ島原と呼ばれるようになったというのが定説のようです。
嘉永4年には大火に見舞われ揚屋町以外の島原のほとんどが消失し、祇園新地で仮営業していたが大半は戻ることなく、明治以降は公家、武士の常連客もいなくなったため次第に娼妓中心の花街になっていったという歴史を辿っています。
廓の東に位置する「島原の大門」ここが入り口だったようですね。
冒頭の筆者の説明と同じようなことが書かれてます、お暇な諸兄はお読みください。
廓は決して広くはなく、寄り道さえしなければ10分もあれば一回りすることができるくらい。
石畳が敷かれていて雰囲気があります。
まずは島原で唯一現役でお茶屋・置屋として営業している「輪違屋」。
入り口には「観覧謝絶」という札が貼ってあるんですが、これは一見さんお断りという意味。
有形文化財として公開される日もあるようですね。
こちらは揚屋であった角屋。
新選組局長筆頭の芹沢鴨がここで杯盤狼藉の上、酔剣を振るって家財を切りつけた痕跡があるので有名。
でもそんなどうでもいい話、わざわざ石碑にするほどのもんかな・・・
散策したのが午後4時頃だったんで入館はかないませんでした。
島原の主だった往時の名残はこの「大門」「輪違屋」「角屋」の3件なんですが、遊里の痕跡はもちろんこれだけではありません。
大門のすぐ外にある建物。
玄関のアールがなんともいえない。
周囲にも数は少ないですが、スナックもちらほらと。
カフェーの鑑識まであります。
廓の南側には丸窓のある建物も。
周囲をぐるっと周って大門の反対側にある西門跡。
西門のすぐ横は島原住吉神社があり玉垣にはかつての揚屋・置屋の名前もちらほらと。
再び廓の中を散策。
廓の中央付近。
当時の面影のある建物が数多く残されてます。
格子も玄関も素晴らしい意匠の建物。
路地には丸窓のある物件もありました。
改装されてるようですが、どうかこのまま残して欲しいですね。
廓の端にあった歌舞練場跡の記念碑。
そして最後、現在はカフェとして営業している建物。
今も「旅館きんせ」の看板がかかっています。
おそらくここも妓楼だったと思われます。
せっかくなんでカフェでひと休み。
玄関のホールでは店員さんが珈琲を轢いておられました。
しかしこのタイルやステンドグラス、当時からのものでしょうかね。
ここから先は他のお客さんもいたんで写真は撮ってません。
もし島原へお越しの際はご自分の目でお確かめください。
最後の最後は廓の北西にある大銀杏。
今は駐車場になってますが、昔はここまで島原住吉神社の敷地だったそうです。
島原は明治以降は娼妓主体の遊里として寂れてゆくのですが、「太夫道中」などの行事は変わらず行われていたようです。
ここ島原の人は所謂「遊廓」と呼ばれることを嫌い、あくまで花街として栄えていたと主張しているあたり、京都人のプライドの高さが伺えますね。
確かに江戸時代まではここ島原が日本の文化発信地だったようです。
炭太祇が与謝蕪村らとともに俳諧活動を行ったりして文人らによる和歌などの文芸活動が盛んだったみたいですね。
現代の渋谷や原宿といったところでしょうか。
そりゃそんじょそこらの遊廓と一緒にされるのは心外でしょう。
島原は昭和33年の売春禁止法施工以後も花街として存続するも、昭和51年に京都花街組合連合会を脱会し現在は輪違屋のみがお茶屋兼置屋の営業を行っているようです。
なので現在は京都五花街にここ島原の名は数えられません。
かつては島原も合わせて京都六花街と呼ばれていたそうなんですが・・・
仕方がないとはいえ寂しいもんですね。
訪問日2018.04.01