住吉新地はかつて住吉公園の南にあったが、昭和9年の国道16号線(現在の国道26号線)建設工事開始に伴い菖蒲園(正式名称は「名月園」)跡地に引っ越されたとあります。
詳しい事は大阪市立図書館のHPに記載されています。
https://web.oml.city.osaka.lg.jp/net/osaka/osaka_faq/69faq.html
大正末年には芸妓扱席15軒、料理屋168軒、芸妓800名が存在していたと書かれています。
なお、全国遊廓案内には記載はありません。
最寄りの阪堺軌道の細井川駅で下車、細井川沿いを西へ。
旧住吉新地があった浜口東周辺。
現在は面影はありませんが古い建物がたくさん残ってます。
浜口商盛会。
近くには料亭風の建物も結構あるんですが遺構かどうか・・・
重厚感のある洋風アパート。
こんな意匠、普通の住宅街ではあんまり見られないけどどうなんでしょう。
さて、今度は阪神高速を挟んだ(新)住吉新地へ。
菖蒲園は住吉川と十三間堀川に挟まれた角地で細井川が十三間堀川に注ぎ込んでいるところの真正面にあったとのこと、十三間堀川は埋め立てられて阪神高速堺線になってます。
現在でいうところの御埼1丁目近辺、住吉川の南側です。
ちょっと北側から回り込んできました。
思案橋の役割をしていたであろう姫松橋の北側はスナックビルなんかが多いです。
駅も近くないのに繁華街があるのはやっぱり新地があったことと関係あるんでしょうかね。
住吉川の遊歩道。
かつての目抜き通りと思しき通り。
とっても保存状態の良い素敵な物件。
ちょっと横長の写真で見苦しいと思いますが、素晴らしい手摺です。
これだけ大事にされてると嬉しくなっちゃいますね。
お向かいにも料亭風の建物が。
売り物件になってます、買おっかな・・・(そんな金ないですが)
※残念ながらこの物件は取り壊されてしまいました(2018年3月追記)
周辺には透かし彫りの手摺が残っている建物もちらほらと。
僕もいろんな手摺をみてきましたがこの扇子の意匠とっても気に入りました、いい職人さんがいたんでしょうね。
角にある洋食屋さん。
このカーブにこのタイル、当時のものでしょうか。
瓢箪の飾り窓、こんなのが残ってるとは。
こちらは学習塾に転業後、主がいなくなったようです。
しかし妓楼が学習塾って・・・
こちらは2軒並んで。
路地に入ってもこんな窓があったり。
通りの北端まで来ました。
一見してそれとわかる物件は少ないですが名残は結構残っていますね。
住吉新地は昭和33年の売春防止法施工により色街としての役割を終えてます。
大阪なのにめずらしくすんなりと・・・と言えば怒られるかな。
なんとなくですが、独特の空気というか閉塞感というかそういうのはあんまり感じませんでした。
ほんと普通の住宅地を歩いているような感覚で危険を感じないというか・・・
僕が麻痺してるだけんでしょうかねぇ。
訪問日2017.01.29
小室由起子
住吉新地についての記述、興味深く読ませていただきました。私の亡くなった祖母は元難波新地の芸者で、住吉新地にて松栄亭というお茶屋(芸者を呼んで遊ぶところ)を営んでいました。祖母は自身の過去のことは、私たちにあまり語ることはありませんでしたが、私(昭和32年生まれ)の小さなころまでは、料亭もあり、まだ三味線や太鼓の音が、聞こえてくる風情のある街でした。売春禁止法が施行され、ことごとく廃業に追い込まれましたが、私の母(現在92歳)に聞くと、当時住吉新地において、男性は戦争にとられたりで、しっかりした人がいなく、やむなく皆さん辞められたそうです。生まれ育った街並みですが、このように客観的にみると、やはり感慨深いです。ご紹介くださりありがとうございました。ちなみに住吉遊郭と記載されておられますが、厳密には花街と遊郭は違うと思います。住吉新地は、あくまで芸者を呼んで遊ぶところだと。母の話によると、遊郭というか女郎さんを置く店ができたのは、戦後らしいです。
en.
小室由起子様
コメントありがとうございます!
申し訳ありません、最後の文章で「住吉遊郭」となっていましたね。
自分でも気をつけてはいたんですが・・・修正しておきます。
この土地にはそんな事情があったのですね。
なにも知らないで記事を書いてしまってお恥ずかしい限りです。
本当に住吉新地でお店を営んでおられる方のお話を聞かせてもらえるとは、興味深くてとても勉強になりました。
こんたろー
こんにちは。住吉新地に関する事、地元なので熟読
させていただきました。
ひとつ私と見解が違うところは、>姫松橋の北側は
スナックビルなんかが多いです。こう書かれている部分の
後にやはり新地があったこと云々書かれてますが、
姫松橋の北側は加賀屋という地域になります。
加賀屋からさらに西へ行くと木津川沿いに造船所が
沢山ありそこで何万人?もの方が働いていました。
私の父も然りですが・・
当時地下鉄がまだ通ってなくてここで働いている方の
通勤手段は南海電車住吉大社駅から南北へ向かうか
チンチン電車(阪堺線)に乗るかでした。
私が子供の頃加賀屋に住んでまして、5時半位になると
その造船所の方から一斉に自転車に乗った何百人と思われる
工員たちがその南海電車に向かい家路を急いでいました。
その途中に加賀屋を通るので寄り道する方たちはそこで
一杯呑んで帰るので当時加賀屋にはかなりの数の居酒屋が
ありました。それにつられてスナックもたくさんできたと
思います。その造船所に外国船の修理が入ると何週間も
ドック入りするので船員たちは加賀屋の町へ繰り出して
当時はほんとに日本人、外国人入り乱れて大変賑やかでした。
大阪が昔日本で一番の都市だった事があったらしいですが、
私が住んでいたあの小さな町「加賀屋」であの賑わいだったことを
考えると東洋のマンチェスターといわれていた頃は正に日本一
だったのでしょうね。駄文だらだらすみません。
en.
こんたろーさん、コメントありがとうございます!
姫松橋のあたりの繁華街はそういった経緯があって栄えたんですね。
たしかにこの辺りから海のほうまでスナックが点々とあるように思います。
貴重なコメント、勉強になります。