4件のコメント

  1. 小室由起子

    住吉新地についての記述、興味深く読ませていただきました。私の亡くなった祖母は元難波新地の芸者で、住吉新地にて松栄亭というお茶屋(芸者を呼んで遊ぶところ)を営んでいました。祖母は自身の過去のことは、私たちにあまり語ることはありませんでしたが、私(昭和32年生まれ)の小さなころまでは、料亭もあり、まだ三味線や太鼓の音が、聞こえてくる風情のある街でした。売春禁止法が施行され、ことごとく廃業に追い込まれましたが、私の母(現在92歳)に聞くと、当時住吉新地において、男性は戦争にとられたりで、しっかりした人がいなく、やむなく皆さん辞められたそうです。生まれ育った街並みですが、このように客観的にみると、やはり感慨深いです。ご紹介くださりありがとうございました。ちなみに住吉遊郭と記載されておられますが、厳密には花街と遊郭は違うと思います。住吉新地は、あくまで芸者を呼んで遊ぶところだと。母の話によると、遊郭というか女郎さんを置く店ができたのは、戦後らしいです。

    • en.

      小室由起子様

      コメントありがとうございます!
      申し訳ありません、最後の文章で「住吉遊郭」となっていましたね。
      自分でも気をつけてはいたんですが・・・修正しておきます。

      この土地にはそんな事情があったのですね。
      なにも知らないで記事を書いてしまってお恥ずかしい限りです。
      本当に住吉新地でお店を営んでおられる方のお話を聞かせてもらえるとは、興味深くてとても勉強になりました。

  2. こんたろー

    こんにちは。住吉新地に関する事、地元なので熟読
    させていただきました。
    ひとつ私と見解が違うところは、>姫松橋の北側は
    スナックビルなんかが多いです。こう書かれている部分の
    後にやはり新地があったこと云々書かれてますが、
    姫松橋の北側は加賀屋という地域になります。
    加賀屋からさらに西へ行くと木津川沿いに造船所が
    沢山ありそこで何万人?もの方が働いていました。
    私の父も然りですが・・
    当時地下鉄がまだ通ってなくてここで働いている方の
    通勤手段は南海電車住吉大社駅から南北へ向かうか
    チンチン電車(阪堺線)に乗るかでした。
    私が子供の頃加賀屋に住んでまして、5時半位になると
    その造船所の方から一斉に自転車に乗った何百人と思われる
    工員たちがその南海電車に向かい家路を急いでいました。
    その途中に加賀屋を通るので寄り道する方たちはそこで
    一杯呑んで帰るので当時加賀屋にはかなりの数の居酒屋が
    ありました。それにつられてスナックもたくさんできたと
    思います。その造船所に外国船の修理が入ると何週間も
    ドック入りするので船員たちは加賀屋の町へ繰り出して
    当時はほんとに日本人、外国人入り乱れて大変賑やかでした。
    大阪が昔日本で一番の都市だった事があったらしいですが、
    私が住んでいたあの小さな町「加賀屋」であの賑わいだったことを
    考えると東洋のマンチェスターといわれていた頃は正に日本一
    だったのでしょうね。駄文だらだらすみません。

    • en.

      こんたろーさん、コメントありがとうございます!
      姫松橋のあたりの繁華街はそういった経緯があって栄えたんですね。
      たしかにこの辺りから海のほうまでスナックが点々とあるように思います。
      貴重なコメント、勉強になります。

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