今回の旅行最終の目的地は瀬戸内海に浮かぶ大崎上島の木江天満遊郭。
木江は潮待ち・風待ちをする船が多く、港町として発展していったそうでその結果必然的に遊里が誕生したようです。
ただ陸に上がって宿を取るのは一部の上級層の者だけだあり、多くの遊女は自ら「おちょろ舟」を漕ぎ舟の中で下級の船員の相手をしていたそう。
その風習は昭和33年の売春防止法施行まで続いていたそうです。
さて前回に続き、今治港から高速船に乗り出発。
これが現代のおちょろ高速艇。
宗方で高速艇からフェリーに乗り換え、木江天満港に到着。
遊郭跡と木江天満港は目と鼻の先です。
通りの入り口には木江町観光協会の案内板。
遊郭の名残であることがなんとなく遠回しに書かれてます。
通りは車一台通行するのがやっとの道幅。
通りを入ってすぐ右側の建物。
2階の手摺に飾り窓、干された布団に生活感を感じます。
お向かいにはゲストハウス。
カフェにもなっているんで寄ってみたんですが営業時間外ということで断念。
ただ店主のお兄さんにいろいろとこの島の話を伺うことができました。
進んでいくと待ち受けているのがこの派手なカラーリングの建物。
カフェーっぽいんですが、そんなに古くなさそうにも見えなくもないんですがどうなんでしょうね。
案内板どおり3階建の妓楼が結構残されています。
この建物、ボロボロの看板が取り付けられていたんですが撤去されていますね。
上の写真じゃ3階建だってことがわかりにくいんで反対側から。
手前のお店も激烈に渋いんですが、3階建ての建物同様傷みが激しいです。
店先のステッカーはなんとEXPO’70セールのもの。
コーラの看板も絵になりますな。
ここで道幅が少し広くなるんですが・・・。
すぐにまた狭くなり。
遊里の濃さが増していきます。
この窓の装飾、めちゃんこカワイイんだけど。
取り壊して廃棄するくらいなら頂けないかな。
このあたり転業旅館でしょうね、これだけの雰囲気を遺す街はなかなかありません。
ただもう人気はなく取り壊されるのを待っているだけです。
木江天満遊郭跡の中でも随一の存在感を誇るカフェ「RUMI」。
これだけでも取り壊される前に来れてよかった。
向かいの玄関もこの意匠。
ただもうボロボロでいつ崩れてきてもおかしくないくらいです。
その先、丸ポストのある十字路には松浦酒店。
なんですが・・・。
そのお向かいにも渋い遺構があったのが全部取り壊されて駐車場になってしまっています。
松浦酒店隣のカフェー建築もすっかり取り壊されていました。
こちらの立派な家屋は当時から旅館だったそう。
丸ポストの十字路を山手に曲がると神社の鳥居。
鳥居の辺りから見ると、さきほどの建物たちの朽ち果てている様がよくわかります。
鳥居横の路地。
ちょうどカワイイ窓飾りのあった建物の裏口になるんでしょうか。
通りに戻ってもう少し奥へ。
カフェー調な建物なんですがどうしてなかなかサイケなことになってます。
当時の雰囲気を遺す建物があるのもこのあたりまででしょうか、引き返します。
次のおちょろ舟までかなり時間が余ったんで町内を散策。
木江港厳島神社の目の前にあった徳森旅館跡地。
かなり風情ある建物だっただけに惜しい限りです。
全国でも1軒しかないと噂される木造5階建ての住宅。
それでもまだまだ時間が有り余るもんで、隣の高速艇乗り場である一貫目まで歩くことに。
こういう離島には他では味わえない哀愁があります。
とか思いながら歩いていたところ。
超弩級の建物を発見。
旅館でしょうかね、こちらも生活感は感じられませんでしたが飾り窓に手摺、フル装備ですよ。
時間をかけて歩いたつもりでしたがすぐに一貫目に到着、これは防空壕の跡だったりでしょうかね。
次の高速艇まではまだ1時間半ほどあります、もう大人しく待つしかないですな。
1時間半後、定刻通り竹原港行きの高速艇が到着。
今治側のほうよりもこっちのほうがおちょろ舟っぽいですね。
博多、北九州、別府、大分、八幡浜、今治と渡り歩いてたどり着いたわけなんですが、この木江天満遊郭へ来るために今回の旅程を組んだようなものです。
遊里の通りの端まで歩いていくと、引き返してくる頃にはもうこの建物たちは無くなっているんじゃないかと思うような木江天満橋の街並み、そんな錯覚さえ覚えてしまうくらい儚い街でした。
実は筆者、昨年から沖縄の離島に引っ越してしまいまして、本土の遊里には簡単に足を運べなくなってしまいました。
まぁもともと更新頻度は著しく低いブログなんでこれからも今まで以上にぼちぼちと続けていければと思います。
【訪廓日 2019.09.06】